Russell, CEPL, §10(1) (chap.2)

あらゆる命題は〈主語−述語〉形式(おのおのの命題に一つの主語と一つの述語)に還元されうるか、という問いは、あらゆる哲学に、特に実体の観念を扱う哲学にとって根本的である。

 

実体…主語と述語の論理的観念から派生する

ブラッドリーの論理学…命題は述語をリアリティ(究極の主体)に帰属させる

 

この形式に還元されえない例「三人の男がいる」…複数の主語を主張している

この場合、数が確認されるのは、命題が単一であるからでしかない(主語が一人であるような命題が三つある場合、おのおのの命題のなかに数は見いだされえない)

 

主語の関係の種類

  1. 位置関係
  2. 大小関係
  3. 全体と部分の関係

 

「線Lと線Mのあいだの比率や割合は三つの仕方で考察されうる:〔1〕最大のLと最小のMの比率として、〔2〕最小のMと最大のLの比率として、そして最後に、〔3〕抽象的な二つの何かとして、つまりLとMのあいだの比率として、それが前のものか後のものか、主体か客体かの考察なしに、考察されうる。こうして、もろもろの割合は音楽において考察される。第一の考察においては、最大のLが主語であり、第二の考察においては、最小のMが、哲学者たちが関係や連関と呼ぶこの偶発事の主語である。しかし、第三の意味においては、そのどちらが主語であるのか?われわれは、LとM、二つあわせたものが、そのような一つの偶発事の主語であるとは言えない。というのは、そうするとわたしたちは、二つの主語の一方のなかに一つの脚を持ち、他方のなかに他の脚を持つ〈二つの主語における一つの《偶発事》〉を持つことになるからであり、このことは諸偶発事の観念に反しているからである。それゆえ、以下のように言わなければならない。この第三の意味におけるそうした連関は、まさに諸主語の外に存在するが、実体でも偶発事でもないのだから、それは純粋に理念的な一つの事物でなければならず、その考察はなお有益なままである」(クラーク宛書簡、1716年8月18日発送)(GP, VII:401/KI, 9:354-355)。

 

ライプニッツによる「関係」

  • 主体や偶発事から区別される
  • 「単なる理念的な事物」
  • 彼はこれを「比率を理解する心の偶発事」だと断言するかもしれない

 

彼は〈主語−述語〉形式しか有効なものとして認めることができないが、関係的な諸命題を軽視していたわけではなく、その主要なもののすべてを〈主語−述語〉形式に還元するよう努めた。

この努力は、彼の学説の主要な源泉の一つである。彼は数学者であったため、空間、時間、数を軽視することはできなかった。

数を主張する命題においては、諸寄せ集め(半−心的な諸存在体)は単なる現象でしかなく、諸寄せ集めの単一性(数の主張に不可欠である)は、それらが一度に知覚されるという事実によって付加される(GP, II:517)(デ・ボス宛、最後の書簡)。

 

そうした判断における真理

  • 主語と述語の個体的な主張
  • 知覚者の一つの述語としての同時的な知覚の心理学的な主張

 

諸数は諸関係の本性を持ち、それゆえ、ある意味で諸存在者である(GP, II:304)(デ・ボス宛)。

諸関係は諸事物(諸モナドとその諸状態)のなかで基礎づけられているが、諸関係のリアリティは上位の理由(神)から派生する(GP, II:438)(デ・ボス宛書簡)。

ライプニッツは空間と時間を、それらのなかにある諸実体の諸属性に還元しようと努めた。位置は、優位や後続性のように、事物の一つの様態にすぎない(GP, II:347)(デ・ボス宛書簡)。

 

「諸単位は切り離されていて、それらがどれほど散らばっていても知性はそれらを集める。しかし、諸関係が知性に由来するにもかかわらず、それらは無基礎なわけでも非リアルなわけでもない。なぜなら、始原的な知性は諸事物の起源であるからだ。そして確かに、もろもろの単純実体を除いたあらゆる事物のリアリティは、もろもろの単純実体のなかの現象の諸知覚の基礎においてのみ成立している」(GP, V:132)(『新論』II, 12)。

 

したがって、諸関係と諸寄せ集めは心的な真理だけを持つ。真の命題は、一つの述語を神に帰属させ、関係を知覚するすべての他の者に帰属させる命題である。