ラッセル『ライプニッツの哲学の批判的解説』chap.1, §1

第一章

ライプニッツの前提

1.

 ライプニッツの哲学は、そのシステムの全体が世の中に発表されることはなかったにもかかわらず、ある綿密な調査が示しているように、並外れて完全な、一貫性のあるシステムだった。彼の見解を研究する方法は、それを提示する彼の方法に大きく依存しているに違いなく、それゆえ彼の性格と境遇について、そしてその諸作品のなかで彼の真の意見がどれだけ表象されているかを見積もる仕方について、どんなに簡潔でも、何かを言うことが不可欠であるように思われる。

 ライプニッツが彼のシステムを一つの大きな作品にまとめなかった理由は、そのシステムの本性のなかには見いだされない。それどころかそのシステムは、スピノザの哲学よりも、諸定義と諸公理からの幾何学的演繹にはるかに適していただろう。〈彼の諸理論の〉ではなく、〈この男の〉性格境遇のなかに、彼の書き方を説明しうる要因が見いだされることになる。彼が書いたすべてのものに対して、彼は、何か直接的な刺激、何か近くで、すぐさま与えられる褒美を必要としたようである。王子を喜ばせるため、ライバルの哲学者を論駁するため、あるいは神学者の諸非難を逃れるために、彼はどんな苦労もいとわないだろう。そのような諸動機のおかげで、わたしたちは『弁神論』、『自然と恩寵の原理』、『新論』、そして『アルノー宛書簡』を手にすることができる。しかし、解説のただ一つの目的について、彼はほとんど気にかけていなかったようである。彼の作品の少数は、ある特定の人物への参照から自由であり、〔それ以外の〕ほとんどすべては、最も有効な諸論拠を供給するよりも、読者を説得することのほうに関心を向けている。説得することへのこの欲求は、ライプニッツの作品を読むことにおいて、常に念頭に置かれなければならない。それは、彼が曖昧な諸記述のなかに埋めたより堅固な諸理由を犠牲にして、人気のある絵画的な諸論拠を際立たせるよう彼を導いたからである。そしてこの理由のために、わたしたちはしばしば、彼の手稿のなかで発見され、エルトマンやゲルハルトのような現代の学生によって初めて出版された短い論文のなかのある点に、彼の見解の最良の言明を見いだす。概してこれらの論文のほうが、彼の哲学の深さと洞察力にはまったくふさわしくない捉え方を許している彼の公の諸マニフェストにおけるよりも、はるかに修辞的ではなく、そのうえそれらよりもはるかに論理的であるということをわたしたちは見て取る。

 彼のとてつもないエネルギーの散逸に寄与したもう一つの原因は、彼の雇用主である王子に満足を与える必要性だった。若い頃、彼はアルトドルフの大学の教授職を拒否し、慎重に、大学の職よりも宮廷の職を選んだ。フランスとイギリスへの旅行へ至らせ、その時代の偉大な人々と偉大な諸理念に彼を引き合わせたこの選択は、確かにたいへん有用な結果をもたらしたが、結局のところ、それはやはり、王子たちへの過剰な服従と、彼らを喜ばせる努力における嘆かわしい時間の浪費を引き起こした。彼は、高名なハノーファー家の系譜学についての労力を要する研究によって偉大な人々との交流の機会を持ち、この研究のために十分な報酬を得ていたようである。しかし、その労働と報酬は同様に時間を吸い取り、大作の執筆に専念できたかもしれない余暇を彼から奪った。したがって、野心、多才さ、そして特定の男と女に影響を与えたいという欲求、これらがすべて組み合わさり、ライプニッツが彼のシステムの筋の通った解説において本領を発揮することを妨げた。