ラッセル『批判的解説』chap.1, §2

2.

この怠慢によって、解説者の諸機能は、大抵の哲学者における場合よりも困難になると同時に重要になる。解説者に最初に要求されることは、ライプニッツが書くべきだったシステムの再構築を試みること──彼の理由づけの連鎖の始まりが何か、終わりが何かを発見すること、彼のさまざまな意見の相互連結を顕示すること、そして彼の他の諸著作から、『モナドジー』や『形而上学叙説』のような作品の剥き出しの概要を埋め合わせること──である。この、避けられないが、幾分野心的な試みは、本論文におけるわたしの目的の一部分──おそらく主要な部分──を形成する。それを申し分なく遂行することは、とても可能ではないだろう。そしてこのことの必然性は、この試みにとってのわたしの唯一の言い訳である。わたしは一貫した全体を顕示したいと思っているので、可能な限りライプニッツの成熟した諸見解に──一六八六年一月から一七一六年の彼の死まで、彼が保持し、しかしその間わずかな修正があった諸見解に──限定した。彼の初期の諸見解と他の哲学者の影響は、それらが〈彼の最後のシステム〉の理解に不可欠であるように思われる限りにおいてのみ、検討されている。

しかし、純粋に歴史的な目的に加えて、本論文は、もし可能なら、ライプニッツの諸意見の真理や虚偽に光を当てることをも企図している。実際に〔現働的に〕保持された諸意見を表明したうえで、それらがどれだけ互いに一貫しているか、したがって──哲学的な誤りは主として一貫性のない形状において現れるので──保持されたその諸見解がどこまで真理であるか、わたしたちはこうしたことの検討を避けることができない。確かに、一貫性のないところでは、わずかな説明でそれを指摘しなければならない。なぜなら、一般に、この著者においては、二つの対立する見解のおのおのを支持する諸箇所が見いだされるかもしれないからである。したがって、一貫性のなさが指摘されない限り、この哲学者が意味するどのような見解もが、彼自身の口から論駁されるかもしれない。解説と批判は、それゆえ、ほとんど分離できず、おのおのは分離の試みに大いに苦しむのだとわたしは思っている。