ラッセル『批判的解説』chap.1, §5-6.

5.

本論文の進行は以下のようになる:第二章から第五章では、上記の前提の最初の四つの帰結について討議し、それらがシステムの必然的な諸命題の全体、あるいはほぼ全体に通じているということを示すだろう。第六章から第一一章では、ライプニッツモナド主義が諸目的因とthe good〔善〕の理念から独立している限りで、その証明と記述に関心を向けるだろう。残りの章では、これらを考慮し、魂と身体、神の学説、倫理学について討議するだろう。これらの最後の章において、ライプニッツはもはや偉大な独創性を示していないが、わずかに言い回しを変えることによって、非難されたスピノザの諸見解を(承認なしに)採用する傾向にあるということをわたしたちは見いだすだろう。わたしたちは、このシステムの最初の部分と比べて、よりマイナーなたくさんの非一貫性をも見いだすだろう。これらの非一貫性は主に、ユダヤ人の無神論者のもろもろの不信心を回避したいがためのものである。したがって、最後の五つの章において扱われる諸主題はライプニッツの著作の大部分を占めているが、これらはそれほど面白いものではなく、彼の理由づけの初期の、より独創的な諸部分と比べて、より簡潔に取り上げられることになるだろう。というのも、それらの主題は、序盤の章の諸主題よりも基礎的でなく、難しくもない、という付加的な理由があるからだ。

6.

ライプニッツの哲学の形成を手伝った諸影響は、本論文の目的には直接連関しておらず、さらに、解説者らによって、彼の最後のシステムの現働的な〔実際の〕解説よりもはるかによく論じられてきた。しかしながら、この主題について二、三のことを述べるのも悪くはない。哲学の四つの継起的な流派が、彼の教育に寄与してきたようである。彼は、いつでも単なる弟子であるにとどまらず、すべてのなかに、そしておのおのから何か良いものを見いだし、彼の諸見解の一部を派生させた。このように、彼は折衷主義者だった。しかし、彼は、借りたものを変異させる自らの力によって、そして最終的に特異な調和的全体を形成する自らの力によって、通常のタイプの折衷主義者とは異なっていた。四つの継起的影響は、スコラ哲学、唯物論デカルト主義、そしてスピノザ主義だった。これらに、わたしたちは、重要な時期における、プラトンの対話編の幾つかについての念入りな研究を付加すべきである。ライプニッツは、ドイツのほとんどの大学で当時まだ途絶えていなかったスコラ派の伝統のなかで教育を受けた。彼は、まだ少年だった頃に、スコラ学者とスコラ派的なアリストテレスについての十分な知識を得た。そして、一六六三年に書かれた彼の卒業論文「De Principio Individui」のなかで、彼はいまだ、スコラ哲学の語法と諸方法を利用している。しかし彼はすでに、この二年前に(もし彼の後の回想が信頼されうるなら)、彼が「些末な諸流派」と呼ぶものから自らを解放し、当時の数学的な唯物論に身を投じていた。ガッサンディホッブズは彼を魅了しはじめ、彼にとって最も重要なパリへの旅行の時点まで、彼の諸思索に大いに影響を与え続けた(ようである)。一六七二年から一六七六年まで住んでいたパリで(二度のイギリスへの短い訪問をともなう)、彼は、ドイツにいた頃よりも密接に、数学と哲学の両面からデカルト主義に精通するようになり、マルブランシュ、アルノーヤンセン主義的な神学者ホイヘンス、ロバート・ボイル、王立協会事務局長オルデンバーグと知り合うことになった。彼はこれらの人々と文通を続け、オルデンバーグを通していくつかの手紙(一五〇年にわたる論争の源)が彼とニュートンのあいだで交わされた。パリ滞在のあいだ、彼は無限小計算〔微積分〕を発明し、幅広い学識と、後に彼を性格づけることになる文学界全体についての造詣を身に付けた。しかし、パリからの帰路において、彼は上の世代の偉大な人物を知ることになる。彼は、一六七六年の約一カ月をハーグで過ごした。スピノザと絶え間なく交流していたことは明らかである。彼は、運動の法則と神の実在証明についてスピノザと討議し、『エチカ』の手稿の(少なくとも)一部を目にした。『エチカ』はそれからまもなくスピノザの死後に出版され、そのときライプニッツはそれをノートにまとめ、その諸論証について非常に注意深く考えていたということは疑いえない。その後、一六八四年まで、あるいは一六八六年までのあいだの彼の考えは(《知識》、《真理》、そして《理念》についての考えが、一つの特別な主題のみを扱うため)、痕跡がわずかに残されているのみであり、一七七〇年から一七八一年までは、カントのように疑うあまりたくさん書くことができなかった。彼は確かにプラトンを読み、彼は確かにスピノザを論駁することを欲していた。いずれにせよ、一六八六年の初めには、彼は自らの個体的実体の観念を組み上げていた。そして彼は、彼がこれまで書いたなかでおそらく最高の記述であるもの──わたしは『形而上学叙説』のことを言っている(GP. IV. 427-463)──をアルノーに送るには十分なまでに、彼の哲学を完全なものにしていた。これとアルノー宛書簡とともに、彼の成熟した哲学が始まる。そして、時間的なものだけではなく、論理的な始まりも、わたしの意見では、ここに求められる。論理的な始まりを形成し、実体の定義を与える論拠は、この後の四つの章のなかに見いだされるだろう。

ラッセル『批判的解説』chap.1, §3-4.

3.

ライプニッツの哲学は、二種類の非一貫性を含んでいるとわたしは主張するだろう。その一つは簡単に除去されるが、もう一つのほうは、《モナドジー》の哲学に似たどんな哲学にも不可欠である。第一の種類〔の非一貫性〕は、ライプニッツの時代に広く受け入れられていた諸意見に衝撃を与える諸結果を認めることへの恐れを通じてのみ生じる──それは、罪の維持と神の実在のための存在論的論拠の維持である。そのようなもろもろの非一貫性が見いだされるところで、王子たちの笑顔に依存するわけではないわたしたちは、ライプニッツが忌避した諸結果をあっさりと引き出してしまうかもしれない。そしてわたしたちがそうしたとき、わたしたちは、ライプニッツの哲学のほとんど全体が、少数の前提に引き続くものであるということを知るだろう。彼のシステムが適切にかつ必然的にこれらの前提から引き続くということの証左は、ライプニッツの哲学的卓越の証拠であり、彼による哲学への恒久的な寄与である。しかし、この演繹の進行において、わたしたちは、第二の、より重大な非一貫性の階級に気付く。諸前提自体は、両立可能であるように思われるが、議論の進行において、矛盾する諸結果を引き起こすということに気付かれるだろう。それゆえわたしたちは、一つかそれ以上の前提が偽であると判断するよう強いられている。わたしは、ライプニッツ自身の言葉からこのことの証明を試み、少なくとも部分的に、彼の諸前提のどれが間違っているかを決定するための諸基礎を与えるよう試みるだろう。このようにして、わたしたちは、彼のように非常に注意深く、非常に徹底的なシステムを検討することによって、独立した哲学的諸結論を確立することを期待しうる。これらの結論は、演繹を引き出すことにおける彼の技量がなければ、容易には発見されえないかもしれない。


4.

ライプニッツの哲学の主要な諸前提は五つあるように私には思われる。諸前提のいくつかは、彼によって明確に示されたものであるが、他の諸前提のほうはあまりにも基礎的だったので、彼はそれらをほとんど意識しなかった。わたしはこれからそうした諸前提を列挙し、この後のもろもろの章において、ライプニッツの残りの部分が、これらからどのように引き続いていくかを示すよう努めるだろう。問われている諸前提は以下のとおりである:

I. どんな命題も一つの主語と一つの述語を持つ。

II. 一つの主語は、さまざまな時点で、実在するもろもろの質である諸述語を持つかもしれない。

III. 特定の時点で実在を強く主張するのではない真の諸命題は、必然的かつ分析的であるが、例えば、特定の時点で実在を強く主張するような真の諸命題は、偶有的かつ総合的である。後者は諸目的因〔最後の諸原因〕に依存する。

IV. 《自我》は一つの実体である。

V. 知覚は、外的な世界の知識を、すなわち私自身と私の諸状態以外の知識を、すなわちもろもろの実在するものの知識を産出する。

ライプニッツの哲学に対する基本的な異議は、第四の前提および第五の前提とともにある第一の前提のこの非一貫性であるということに気付かれるだろう。そして、この非一貫性において、わたしたちはモナド主義への一般的な異議を見いだす。

ラッセル『批判的解説』chap.1, §2

2.

この怠慢によって、解説者の諸機能は、大抵の哲学者における場合よりも困難になると同時に重要になる。解説者に最初に要求されることは、ライプニッツが書くべきだったシステムの再構築を試みること──彼の理由づけの連鎖の始まりが何か、終わりが何かを発見すること、彼のさまざまな意見の相互連結を顕示すること、そして彼の他の諸著作から、『モナドジー』や『形而上学叙説』のような作品の剥き出しの概要を埋め合わせること──である。この、避けられないが、幾分野心的な試みは、本論文におけるわたしの目的の一部分──おそらく主要な部分──を形成する。それを申し分なく遂行することは、とても可能ではないだろう。そしてこのことの必然性は、この試みにとってのわたしの唯一の言い訳である。わたしは一貫した全体を顕示したいと思っているので、可能な限りライプニッツの成熟した諸見解に──一六八六年一月から一七一六年の彼の死まで、彼が保持し、しかしその間わずかな修正があった諸見解に──限定した。彼の初期の諸見解と他の哲学者の影響は、それらが〈彼の最後のシステム〉の理解に不可欠であるように思われる限りにおいてのみ、検討されている。

しかし、純粋に歴史的な目的に加えて、本論文は、もし可能なら、ライプニッツの諸意見の真理や虚偽に光を当てることをも企図している。実際に〔現働的に〕保持された諸意見を表明したうえで、それらがどれだけ互いに一貫しているか、したがって──哲学的な誤りは主として一貫性のない形状において現れるので──保持されたその諸見解がどこまで真理であるか、わたしたちはこうしたことの検討を避けることができない。確かに、一貫性のないところでは、わずかな説明でそれを指摘しなければならない。なぜなら、一般に、この著者においては、二つの対立する見解のおのおのを支持する諸箇所が見いだされるかもしれないからである。したがって、一貫性のなさが指摘されない限り、この哲学者が意味するどのような見解もが、彼自身の口から論駁されるかもしれない。解説と批判は、それゆえ、ほとんど分離できず、おのおのは分離の試みに大いに苦しむのだとわたしは思っている。

ラッセル『ライプニッツの哲学の批判的解説』chap.1, §1

第一章

ライプニッツの前提

1.

 ライプニッツの哲学は、そのシステムの全体が世の中に発表されることはなかったにもかかわらず、ある綿密な調査が示しているように、並外れて完全な、一貫性のあるシステムだった。彼の見解を研究する方法は、それを提示する彼の方法に大きく依存しているに違いなく、それゆえ彼の性格と境遇について、そしてその諸作品のなかで彼の真の意見がどれだけ表象されているかを見積もる仕方について、どんなに簡潔でも、何かを言うことが不可欠であるように思われる。

 ライプニッツが彼のシステムを一つの大きな作品にまとめなかった理由は、そのシステムの本性のなかには見いだされない。それどころかそのシステムは、スピノザの哲学よりも、諸定義と諸公理からの幾何学的演繹にはるかに適していただろう。〈彼の諸理論の〉ではなく、〈この男の〉性格境遇のなかに、彼の書き方を説明しうる要因が見いだされることになる。彼が書いたすべてのものに対して、彼は、何か直接的な刺激、何か近くで、すぐさま与えられる褒美を必要としたようである。王子を喜ばせるため、ライバルの哲学者を論駁するため、あるいは神学者の諸非難を逃れるために、彼はどんな苦労もいとわないだろう。そのような諸動機のおかげで、わたしたちは『弁神論』、『自然と恩寵の原理』、『新論』、そして『アルノー宛書簡』を手にすることができる。しかし、解説のただ一つの目的について、彼はほとんど気にかけていなかったようである。彼の作品の少数は、ある特定の人物への参照から自由であり、〔それ以外の〕ほとんどすべては、最も有効な諸論拠を供給するよりも、読者を説得することのほうに関心を向けている。説得することへのこの欲求は、ライプニッツの作品を読むことにおいて、常に念頭に置かれなければならない。それは、彼が曖昧な諸記述のなかに埋めたより堅固な諸理由を犠牲にして、人気のある絵画的な諸論拠を際立たせるよう彼を導いたからである。そしてこの理由のために、わたしたちはしばしば、彼の手稿のなかで発見され、エルトマンやゲルハルトのような現代の学生によって初めて出版された短い論文のなかのある点に、彼の見解の最良の言明を見いだす。概してこれらの論文のほうが、彼の哲学の深さと洞察力にはまったくふさわしくない捉え方を許している彼の公の諸マニフェストにおけるよりも、はるかに修辞的ではなく、そのうえそれらよりもはるかに論理的であるということをわたしたちは見て取る。

 彼のとてつもないエネルギーの散逸に寄与したもう一つの原因は、彼の雇用主である王子に満足を与える必要性だった。若い頃、彼はアルトドルフの大学の教授職を拒否し、慎重に、大学の職よりも宮廷の職を選んだ。フランスとイギリスへの旅行へ至らせ、その時代の偉大な人々と偉大な諸理念に彼を引き合わせたこの選択は、確かにたいへん有用な結果をもたらしたが、結局のところ、それはやはり、王子たちへの過剰な服従と、彼らを喜ばせる努力における嘆かわしい時間の浪費を引き起こした。彼は、高名なハノーファー家の系譜学についての労力を要する研究によって偉大な人々との交流の機会を持ち、この研究のために十分な報酬を得ていたようである。しかし、その労働と報酬は同様に時間を吸い取り、大作の執筆に専念できたかもしれない余暇を彼から奪った。したがって、野心、多才さ、そして特定の男と女に影響を与えたいという欲求、これらがすべて組み合わさり、ライプニッツが彼のシステムの筋の通った解説において本領を発揮することを妨げた。